幸運に過ぎなかった「食糧輸入大国日本」( 08/4/7)
NIKKEI NET 経済羅針盤 日本経済新聞
国際情勢がわかる 連載<第11回>
吉崎 達彦 氏
双日総合研究所 副所長
「溜池通信」主宰
幸運に過ぎなかった「食糧輸入大国日本」( 08/4/7)
もしもあなたがどこかの国の指導者であって、経済の方向性を決める立場であったとしたら、農業国と工業国のどちらを選ぶだろうか? 言い換えれば、今のグローバル時代において、農業国と工業国はどちらが「お得」だろうか。
目指すなら工業国より農業国がお得?
普通は工業国の方が「お得」と思うかもしれない。工業製品の方が付加価値は高そうだし、技術革新もあるし、いかにも先進国という感じがする。ハイテク産業を育成して、世界的な企業が続々と誕生する、となればますますカッコいい。おそらく世界中の国の指導者が、そういう産業政策を思い描いているのではないだろうか。
しかし考えてみてほしい。ここ数年、工業製品の価格は下落が進む一方だ。そして昨今の国際競争の激しさを考えると、このトレンドが逆転する可能性はきわめて低そうである。何より、中国やインドとコスト競争をしなければならないということは、利益なき繁忙を覚悟しなければならない。加えて工業国は環境問題もあるし、資源も大量に使うので、今から目指すのはあまりお勧めではないようである。
逆に農産物価格は上がる一方だ。そして今後も上がり続ける公算が高い。なにしろ食糧生産は自然環境の制約が厳しいので、設備投資によって生産能力を一気に倍にする、などという荒業が効かない。そして技術革新による生産性向上の余地も、それほど大きくはない。また、近年は異常気象や水不足による耕作不能が増え、将来の農産物供給に不安の陰を投げかけている。
そして農産物への需要は確実に増えている。世界の人口は増える一方であるし、新興国では経済成長によって生活水準が飛躍的に向上している。人はケータイやPCがなくても生きていけるが、メシは毎日食わないことには生きていけない。さらに言えば、農業は国土の環境保全にも役立つ。今の時代は工業国を目指すよりも、実は農業国の方が有利なのではないだろうか。
ニュージーランドという生き方
先月、ニュージーランドに出張している間に、そんなことを考えた。
ニュージーランドは、日本人にとってたいへん居心地のいい国である。四季のある温暖な島国であり、緑が多くて、火山と地震があって、温泉があることも日本と似ている。景色が似ているということで、『ラストサムライ』や『どろろ』などの映画はこの国で撮影された。治安がよく、車は右ハンドルだし、水道の水が飲めて、チップも払わなくていい。加えて日本語ができる人も多いので、外国に居ることをそれほど意識しなくて済む。学生の修学旅行などにはうってつけであろう。
その一方で違うところも少なくない。ニュージーランドは、日本より若干狭い程度の国土に、人口は400万人程度。横浜市、ないしは静岡県程度の人口しかない。羊の数は4000万頭なので、「人1人あたり羊10頭」である。つまり日本が工業国であるのとは対照的に、典型的な農業国というわけだ。
お陰で両国間の貿易は相互補完的である。日本はニュージーランドから酪農品や食肉、林産物、果実といった一次産品を買い、逆に自動車や電気機器といった工業製品を売る。お互いに持ちつ持たれつの関係だ。筆者は1996年からずっと、日本ニュージーランド経済人会議に参加しているが、両国関係はずっと良好である。それどころか「問題がなさ過ぎることが問題」などといわれることもある。
もちろん日本政府は、外国産の乳製品などに途方もなく高い関税を課している。このことに対し、ニュージーランド側には不満がある。しかし日本側が「良いお客」であるために、今まであまり大きな問題になることはなかった。少なくとも、民間同士の会合である日本ニュージーランド経済人会議において、農業問題で紛糾したという記憶は1回もない。商売の世界においては、「買い手は王様(Buyer is King.)」なのである。
日本は賢明な輸入戦略を
もっともこんな関係が、いつまでも続く保証はない。農業国の立場は強くなり、工業国の立場は弱くなっている。ニュージーランドと日本のバランスも、少しずつ変わりつつあるように思える。
今月、ニュージーランドは先進国では初めて、中国と自由貿易協定(FTA)を締結する。経済成長を続ける13億人の市場が、これからニュージーランドの農産物のお得意様になっていくことを見越しての決断である。インドなど高い経済成長を続ける多くの新興国が、それに続くだろう。彼らは豊富な経常黒字を有し、海外の高品質な農産物の味を覚え始めた。こうした中で、買い手としての日本のプレゼンスは相対的に低下している。
ところで今回の筆者のニュージーランド出張は、ジェトロ主催のセミナーに参加するためであった。東アジアの経済統合の必要性を説くとともに、「ASEAN+6」の枠組みに支持を集めることが目的である。
これに対し、ニュージーランド側の代表的な反応は、「ASEAN+6という枠組みは大いに結構だ。ASEAN+3にインド、豪州とともに、わが国が加えてもらえるのはまことにありがたい。しかし、なぜ日本は二国間のFTAには消極的なのか?」であった。 これには同国特有の事情がある。日本は豪州とのFTAの共同研究を開始しているが、ニュージーランドはまったく考慮されていない。ところがニュージーランドと豪州の経済はほとんど一体化しており、仮に豪州のみが日本向け関税が下がることになれば、ニュージーランドの畜産・酪農製品が比較劣位となる。とはいえ、日本の対ニュージーランド輸入の半分程度を農産品が占めている現状では、FTA交渉は政治的にきわめて困難といえる。(まして昨今の国内政治情勢では!)
この4月1日から、政府の小麦売り渡し価格が30%引き上げられ、パン、麺類、菓子など多くの食品の値段が上がることになった。牛乳、食用油、しょうゆなども値上がりしている。世界的な穀物価格の高騰が一度に押し寄せてきた形である。
「日本の食料自給率は4割に過ぎない。もっと自給率を上げなければならない」とは、しばしば指摘されるところである。筆者もまったく同感だが、「国内生産が4割」という事実の陰には、これまでの日本が「食料の6割も輸入できる幸運な国」であったことも無視できない。日本には経常黒字があったし、農業国との友好的な関係もあった。そして彼らは「日本はよいお客」と見なしてくれていた。
そうした古き良き時代が終わりつつある。国内需要が少子・高齢化で先細りとなり、買い手として強力なライバルが続々と誕生する中で、日本はいかにして国内の食料需要を満たしていくことができるのか。国内農業の建て直しも急務だが、賢明な輸入戦略を持つことも同様に重要であると強調しておきたい。
(双日総合研究所副所長・吉崎達彦氏 寄稿)